人生裏ローテ

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【読書メモ】柳澤健『1985年のクラッシュ・ギャルズ』

プロレスに多少なりとも興味を持って、自分なりに調べたことは様々にあるが、わからないことも多い。そのなかでも大きな謎が「なぜ、80年代の少女たちは女子プロレスラーに夢中になったのか?」というものだった。本書はライオネス飛鳥長与千種のユニットであるクラッシュ・ギャルズの栄枯盛衰を描くことでその謎を解き明かし、プロレスへの理解を深めてくれる一冊である。

日本女子プロレス、全女の出身者の話に共通するものとして「全女はとにかくひどい」というものがある。レスラーめしの連載を読んでドン引きした。それも当然で、全女の支配者である松永兄弟が求めていたのは「女同士のケンカ」であった。当時の日本は男尊女卑である。男子プロレスのように、リング上では敵対してもその他では仲良くやるような芸当は女にはできないと思われていたというのだ。その風潮を変えたのが80年代の名レスラーであるクラッシュ・ギャルズであり、極悪同盟なのだろうが、80年代という時代は男女雇用機会均等法が制定されるなど、全体として女性が自らの力を解放していく時代だったという背景とともに語られるから納得する。

つまり、実力で性差を黙らせるという今日では当たり前すぎて意識すらされないような現象が起こり始めたのがこの時代であり、一世を風靡したクラッシュ・ギャルズもまた、時代の象徴であったということである。

そのクラッシュ・ギャルズは、なぜ一世を風靡することができたのだろうか。その問いに、本書ではもう一人の主人公を用意している。ライオネス飛鳥の親衛隊長からプロレス雑誌の編集者になった伊藤雅奈子である。伊藤の視点からは、当時熱狂した少女の心情が切々と語られる。

プロレスの面白さとは何だろうか。長与千種は試合を通して観客に自分の感情と痛みを伝えることを目標としていた。そして、思春期の少女は自分の性を憎みつつも、男を愛すると自らの性を実感してしまう。ゆえに女であることから自由な女を愛する。この感覚を長与千種は体感で理解していたから、うまくスイングすることができた。

試合という「点」が、世相と思春期のジレンマという「線」で繋がる。このダイナミズムが、まさにプロレスの魅力である。

ゆえに、長与千種の功績は男子プロレスの技を輸入したことだけではない。最大の功績は、女子プロレスを松永兄弟が目指す「女同士のケンカ」からプロレスへと脱皮させたことだ。その結論が、クラッシュ・ギャルズが栄華を極めるまでの過程から読み取れる。

そのクラッシュも、全女の25歳定年制度には勝てずに引退してしまう。ビューティ・ペアからずっと、全女はこのシステムがあってもスターを生み出すことができたという驕りもあったのかもしれないし、単純に松永兄弟が女性を下に見ていただけかもしれない。

けれど引退間際、長与は女子プロレスの改革を望み、神取忍を全女のリングに上げることで女子プロレスを変えようとした。しかし、ここで長与は少女たちからの支持を受けられずに敗北する。少し長いが引用しよう。

長与千種という夢、クラッシュ・ギャルズという夢を見続けてきた少女たちは、自分が見た女子プロレスという夢が不完全であることを認めることができず、夢にメスを入れて改革しようとする長与千種を批判したのである。 人は人を愛さない。人は自分の中にある夢だけを愛する。 ブラウン管の向こう側にいる少女たちが愛したのは、現実のプロレスではなかった。 プロレスラー長与千種は、少女たちの夢の中に生きる長与千種に敗北した。すなわち長与千種は、自身が作り出した幻想に敗北したのだ。

この「人は人を愛さない。人は自分の中にある夢だけを愛する」という構図は、今でも様々なコンテンツで見られる。哀しさすら感じる一文だ。

その後、長与は全女へのアンチテーゼとして、選手の身体を大切にする団体であるGAEAを旗揚げする。女子プロレスの女横綱里村明衣子はこの団体の出身である。しかし、長与の理想であったこの団体は過保護とエリート教育のゆえに崩壊する。一度振り切れた針の反対側には、別の破綻しかないのだろうか。少し悲しくなる。

『有田と週刊プロレスと』ファーストシーズンの冒頭のナレーションでは「プロレスとは人生の教科書」と読み上げられる。全女、そしてクラッシュの栄枯盛衰はまさに人生の教科書である。せっかくなので同じ著者の『1984年のUWF』も読もうかと思ったら佐山聡を英雄視するあまり公正さを欠いているらしい。これもまた人生、と受け止めるべきだろうか。