人生裏ローテ

通年裏ローテを守って地味に重宝がられる人生を送りたいITエンジニアのブログ

書評『いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学』

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

タイトルをひと目見たあなたは、おそらくこう思うだろう。

「あぁ、これは忙しいビジネスマン向けに、行動経済学を応用した時間管理手法を解説する本なのだな」と。

しかし、一読すれば印象は一変する。

もちろんこれは邦訳するにあたって早川書房が改変したタイトルで、原著タイトルは Scarcity つまり、「希少性」となる。

はじめに断っておくと、本書は経済学が扱う希少性という概念を軸に、様々な欠乏――金銭的であれ、時間的であれ――に共通する特徴を暴き出し、貧困への理解を促すものである。

忙しい人にとっては時間が希少で、経済的に貧しい人にとってはお金が希少なのだ。

行動経済学が広く知られるようになったのは2002年にダニエル・カーネマンノーベル経済学賞を受賞したことと、2011年(邦訳は2012年)にカーネマン自身が『ファスト・アンド・スロー』を著したことが契機だと評者は理解している。つまり、分野としては比較的新しいものだ。*1

しかし、行動経済学により、従来の経済学が想定していた人間像が実像とは大きく異なることが理解されつつあることについては論をまたないだろう。

様々な実験から本書が導き出した結論は以下のようなものになる。

  • 流動性認知と実行制御力を人間の能力の指標としたとき、欠乏状態はその両方に強く負荷をかける
    • これは実験室で作り出した人工的な貧困状況でも同様である(被験者のもともとの属性によらない!)
  • 欠乏状態による能力の低下を防ぐためには「ゆとり」(スラックと表現されている)が必要である

最も大事なのは、欠乏によって認知機能や自制心が低下することは当人の能力とは関係ないということだ。

多くの人は、貧困者が公的サービスをフルに活用しなかったり、せっかく得た補助金フードスタンプをすぐに浪費してしまうことは怠惰の証と捉える。

しかし、これは当人の能力とは関係なく、欠乏状態が彼らの能力を下げているだけなのだ。実験によれば、IQにして13から14ポイントを下げるという。

このような主張をいきなり述べても理解されにくい。それゆえ、「時間の欠乏」という理解しやすい欠乏によって理解を促そうというのが本書の良いところだ。

仕事が忙しかったときにジムに行かなかったり、掃除を適当にやったり、食事を疎かにしたりした経験は裕福な人でもあるだろう。この心理が生活の至る部分に影響しているのが経済的な貧困である。

評者個人の経験としては、同人誌の締切の直前には生活の他の部分が一切合切放っておかれる。具体的には掃除、洗濯、トレーニングをやらなくなり、食事が粗末になる。締切のない時はそれらをしっかりやるにもかかわらず、である。これは時間があるかどうかに関係なく、「脳のリソースがもっていかれる」という自覚が薄々あったのだが、本書の述べる様々な事例はまさにこの感覚と合致していた。*2

では、この欠乏の罠から抜け出すにはどうすれば良いのだろうか。鍵となるのは「スラック」つまりゆとりである。

本書で挙げられている例として、アメリカのとある病院の例がある。

ミズーリ州にある救急病院、セント・ジョンズ地域医療センターでは32の手術室で年間3万件あまりの外科手術が行われていて、その予定を組むのが難しくなっていた。

救急病院であるので、急患は多く、前から予定していた手術を動かさざるをえないこともある。そのため、医師の残業が問題になっていた。

この問題を解決するために何が行われたか、それは手術室の一つを予備としておき、急患をそちらで対処するという意外な解決策だった。

急患によるスケジュールの組み直しがなければ──誰もが予定どおりの時間だけ働き、手術にかかる時間も短いので──すべての患者に対処するだけの十分な手術室があった。手術室の欠乏はじつは手術用スペースの不足ではなく、急患を受け入れられないことだったのだ。

これが「スラック」の魔術である。

翻って現代の日本はスラックをひたすら削減する方向にいっている。これではうまくいかない。本書では「火消しの罠」という一節を割いて解説されている。少し長いが引用しよう。

組織研究者のロジャー・ボーンとラムチャンドラン・ジェイクマーが述べているように、火消しをしている組織にはいくつか共通点がある。第一に、「問題が多すぎて時間が足りない」。第二に、緊急の問題を解決するが、緊急でない問題はどんなに重要でもあと回しにする。第三に、これが次々に連鎖を生むので、やるべき仕事の量が増える。要するに、目前の火を消すことに時間が費やされ、火を防ぐためのことは何も行なわれないので、たえず新しい火の手が上がる。

前職のSIerがまさにこれだったのだが、多くの組織でこの「火消しの罠」がみられるであろうことは想像に難くない。

解決のためには、ゆとりが必要なのだ。けっして一人あたりの案件数を増やせるようにするなどの「効率化」ではない。

とはいえ、組織の問題は意思決定のできる人間にしか解決できない。願わくば本書が社会的立場のある人間に読まれることを祈る。

*1:ソフトウェアの世界では2011年はじゅうぶん古典だが…

*2:ちなみに締切直前に生産性が上がるのは「集中ボーナス」とされているのだが、他のことが見えなくなるし、この効果は長続きしない